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私は、これを不幸せと言う。
 はたと、夜道に立ち止まる。すぐ聞こえてくる落ち着かない鼓動のうるささを無視するために、わたわたとまた歩き出す。
「ああもう、どうしたらいいのかな」
 どうしたら。
 焦燥と逸る不安に苛まれ、私は意味もなくあてもなく歩を速める。気を抜いたらへたり込んだまま動けなくなりそうで、気を抜いたら気を違ってむちゃくちゃに走りだしそうで、どうしようもないくらい心がぐちゃぐちゃしていて。何も考えないように足の動きに集中してみるけれど、そんなことをしたって状況は改善したりしないのだ。
「どうしたらいいのかな」
 うわごとのように呟き続ける。夜道に人はいないから、変な目で見られることもない。
 どうしたら。
 どうしたら……。
 文言を脳裏で反復ながら歩いているうち、通りかかった近くの家の中からテレビの音声と笑い声がどっと溢れてきて、私は思わず肩を震わせる。
「ひっ……」
 刹那に満ちる恐怖が過ぎると、一気にむなしくなった。
 駄目だ。こんなものに怯えていてどうする。いい加減にして落ち着けよ私。まったく馬鹿じゃないのか。
 そんな虚無感もまた一瞬で、間髪いれずに不安がだーっと押し寄せてくる。いつだって不安くらい笑ってどこかへ押しやれていたのに、今日の私はどうかしている。
 ただただ、見える世界が恐怖に揺らいで、揺らぐほどに足取りがしっかりしていくばかりだ。私の足は一体どこに向かっているのだろう。どこへ向かおうかわからないのになぜこんなに迷わず動き続けるのだろう。
 ずっと早歩きをしているから、少しずつ息が上がってくる。動機。もともとうるさかった気もするけど。
 ふと、足取りが鈍くなった。はっとして眼前へ意識を向けると、急な坂道がそこに聳えている。目視したとたんに、登る気が失せてしまうくらいには急な坂だ。
「……」
 ああ、もう、本当に登る気が失せてきたじゃないか。どうしてくれるんだ。って私は何に怒っているんだ?
 混乱したまま、ふらふらと、脇にあった電柱に寄りかかった。動機が静まるくらいまでは、立ち止まっていたっていいじゃないか。どうせ行く宛はないのだし。たぶん自分自身に対して、そう言い訳する。
 ……嫌になる。
 なんで動機は収まってくれないのかな。
 苦しい。
 胸の前で両手を握りしめて、私はへなへなとその場にしゃがみこんだ。しゃがみこんでもどうなるってわけではないけど、結局何をどうしてもどうなるってわけではないから同じ事だ。
 私が視線を足元へ落とすと、そこに、一匹の蜥蜴の死骸が転がっていた。この辺りって中途半端に住宅街で中途半端に自然があるから、蜥蜴みたいなのも結構いるのだ。道端で死骸を見かけるのも、珍しいことではない。
 それでも、私は目を見張り息を呑んだ。もう動き出すことのない冷たくなった身体は、どうにも醜い。
「……死んでる」
 掠れた声がこぼれる。
 ちかちか。フラッシュバック。視界が目まぐるしく点滅する感覚は、立ち眩みにも似ている。

 場所は自宅。電気はついていて明るい。
 声を出そうとするけれど、喉がつかえてうまく出せない。ひゅっという情けない息遣いに終わってしまう。
 あまりの緊張に手が悴んでいて、指先の感覚がない。冷や汗が一滴だけ、こめかみを伝っていく。
 耳鳴りが酷い。
 凍り付いた空気と、しつこい恐怖がせめぎあう。
「黙ってないで何か言えよ」
 聞こえる。その威圧感に肩が強ばって、さらに声が出なくなる。無意識に息すら止まって、酸欠に視界が眩み始める。
 耳鳴りの中でも、微かな金属音は聞こえてしまって。暗くなった視界でも、真っ白な輝きだけは見えてしまって。
 身体が、動かない。
「言えって」
 急かされる。無茶を言うな。立っているだけで精一杯だ。
 みえなくなる。きこえなくなる。かんじなくなる。もういきができない。
 立ったまま自分が死んでいくような時間が過ぎる。けれど、その死は幻なのだ。本物は目の前にあって、迫ってきていて。
 とうとう、足元がぐらりと崩れた。倒れ、半身を床に打ち付けた痛みで呼吸が戻る。さらに聴覚と視覚が戻る。見れば、先ほどまで自分が立っていた場所に一筋、純白の輝きがあった。
 今だ。息をしろ。酸素を取り込め。そうしたら動ける。息をしろ。さぁ動け。走れ。玄関はすぐそこだ。今しかない。立ち上がれ。死にたく、なければ。
 死にたくない!
 声にならない叫びを上げて、包丁を手にした家族をどんと突き飛ばす。そのままの勢いで駆けて、駆けて、玄関に辿り着くと適当な靴をつっかけて扉を開けて外に出て閉める。そして走り、走り、走り、また酸欠になったころから歩き出した。この夜道を、なんの宛もなく。

 電柱を支えに立ち上がって、私はまた歩くべく足を踏み出した。
「どう……したら……」
 また呟いてしまう。どうしたらいいのかな?
 ただの下らない喧嘩が原因なら、迷わず通報したかもしれないけれど。家族を傷つけたのは私だ。怒らせたのは私だ。恨まれるようなことをしたのは私だ。ぜんぶ私の因果応報で自業自得なのだ。だから、通報などして家族に迷惑をかけるわけにはいかない。第一、大好きな家族なのだから。
 どうしたらいいのかな。
 苦しさは未だ収まらない。不安の渦が、また足元をふらつかせる。
 蜥蜴の死骸を、誤って踏み潰してしまった。


2015/08/14執筆

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